浅丘ルリ子『愛の渇き』

8/27土 ラピュタ阿佐ヶ谷『愛の渇き』(1967日活 蔵原惟繕) 浅丘ルリ子特集最終日。

http://www.laputa-jp.com/laputa/program/asaokaruriko02/

http://movie.walkerplus.com/mv21658/

f:id:domperimottekoi:20160830192604j:plain

↑ 左から山内明 中村伸郎 楠侑子 浅丘 小園蓉子。観覧後原作(三島由紀夫同題作新潮文庫)初読 三島25歳時作。お話ほぼ忠実で雰囲気も相当完璧に踏襲と知る。が最大の再現は主人公悦子の内に秘めた強靭さが俄然嵌まる浅丘の熱演。60年代前半までの青春物アクション物とは一段違う境地魅せる。細部乍ら相違点としては小説は悦子が園丁の若者三郎への靴下を買うところから始まる(この小道具がある種鍵となる)が映画ではそのくだりは中盤に廻され冒頭では悦子と弥吉(中村)の愛欲シーンが比重占めいきなり観客の目を釘づけに。また原作では悦子の亡夫(弥吉次男良輔)の死期が回想乍らかなり詳しく描かれるが映画での良輔(俳優未詳)は静止画像のみで処理。個人的に目を惹かれたのは映画での杉本家の晩餐が幼い子供たちまで含め同じテーブルで一堂に会してなされる点で非常に印象的な画面をなす(弥吉の専制ぶりと長男謙輔(山内)の頽落ぶりをカメラが頭上から下降しながらワンショットで撮る等)が小説では3組の世帯が別々に食事する設定。やはり1つの食卓での人物攻防のほうが映像的に効果大ゆえの演出かと。小説映画ともに悦子 弥吉 三郎 美代(女中)の奇妙な(奇怪な?)4角関係が筋の軸となるが原作の三郎は人物像さほど深くないのに比し映画での石立鉄男は目を瞠る存在感。「であります」調台詞が気になったが小説でも同じでしかもその理由まで記され納得。また石立以上の注目は中村伸郎で原作の老醜に侵された尊大な富豪の嵌まりぶりは余人なしの感。貫禄あり過ぎる山村聰 佐分利信ではこうは行くまいし東野英治郎 志村喬あたりでも全く別物になっただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.

広告を非表示にする