北大路欣也

『夜の大捜査線』がまさにそうだったように、俳優の〈所謂〉演技や存在感(〈この〈所謂〉の部分が肝心だが)をクローズアップするためにはストーリーはより単純なほうが──もっと正確にいえば〈つまらない〉ほどいい。例えば『夜の…』では〈陳腐な事件〉が、『半沢直樹』の場合は〈勧善懲悪〉がその〈単純さ〉に該当する。一方で黒沢清や内田けんじや白石晃士らの映像作のような〈複雑〉なものはそういう狙いには向かない──つまり俳優の演技や存在感は端的にいって彼らには〈必要ない〉。だが『夜の…』や『半沢…』はそれらを敢えて必要〈たらしめる〉ために、ストーリーを極限まで単純化(すなわち極限まで〈つまらなく〉)することを〈意識的に〉やって大成功した稀有な例だろう、そういう志向はむしろ失敗するリスクのほうが遥かに大きいはずだから。逆にいえば、それに比して黒沢や内田や白石らの行き方のほうが実は〈たやすい〉ということになる。そう、複雑なものを作ることのほうがたやすいのだ実は。

但し『半沢』のラストに関するかぎりは…(※注!以下ネタバレの恐れあり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北大路欣也といえば個人的には『樅ノ木は残った』(1970)での酒井雅楽頭だ ↓ 。

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『樅』最終回で大老雅楽頭は幕府(と自ら)の威信を守るため、原田甲斐(平幹二朗)伊達安芸(森雅之)柴田外記(神田隆)らを一挙に斬殺する。単なる勧善懲悪を超える(かのように見える)『半沢』のラストにこの『樅』を思い出したのはおいらだけじゃないはずだ。そして徹底した単純さへの志向を捨てたかのようなラストはある意味残念だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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