グレッグ・イーガン『ゼンデギ』
グレッグ・イーガン『ゼンデギ』(山岸真 訳)ようやく読了す。
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イーガンにしては何と読み易かったことか!──いや『白熱光』に比べたらの話。その『白熱光』も既成の専門用語を排してSF的論理を語るという実験をやってるので逆説的には実は「読みやすい」(!)はずなのだが実態としてはこれ以上わけが判らないものもないわけで。そこに行くとこの『ゼンデギ』の「地に足がついてる」感は凄く安心する。但しそれじゃわけが判ったのかと言えばそんなことはない(笑)。でもこの作家の場合「何となく」判ってれば(判ったつもりになれれば)いいんだと思う。いや実際『宇宙消失』や『万物理論』に比べたらめんどくさい言葉や理論の量は遥かに少ないし、それに何よりそれら既作にあった圧倒される昂揚感や騒擾感がなくて全体にとても静謐な感じがする。ヴァーチャルリアリティをテーマにしてる点では『順列都市』に通じる(『ディアスボラ』も同系のようだが序盤で挫折したまま読めてない)がそちらは極度にSF的で(ハードSF中のハードSFだから当然だが)難渋させられるが、この『ゼンデギ』はそれを思えばまるで普通の小説?のようだ。とは言え例えば〈サイドローディング〉というのは今もよく判らないが、〈プロキシ〉なるものはヴァーチャルリアリティ中の人工人格、あるいは『順列…』に出てきた〈コピー〉に類似したもの、あるいはP・K・ディックが使う〈シミュラクラ〉…いやあちらはロボットだから違うかもしれないが、とにかく大雑把なイメージは割と捉え易い。むしろこの小説で関心を惹かれるのは構成と舞台設定だ。章ごとにマーティン(♂)とナシム(♀)の視点で交互に語られ、さらに第1部と第2部では15年ぐらい歳月の開きがある。この2人の主人公が〈ゼンデギ〉というヴァーチャルゲームを接点として出会うのだが、その間にそれぞれの人生に変転がありそれが〈出会い〉と有機的に連関しやがてある終局へと展開する。その〈変転〉や〈終局〉は登場人物たちにとって悲劇だったり希望だったりするがそれがこの小説特有の不思議な静謐によって昂揚や騒擾が排され却って深い感慨を生む。ただそこで1つ思うのは、イーガンという人は小説に徹底したSF的思弁を持ち込む実験の他に、小説というもの自体の構造にも挑戦してるような節があるので、例えば2人の主人公が〈最後まで出会わない〉という選択も想定され得たんじゃないかということ。個人的なことで言えばたまたまつい先日観た『七つの弾丸』という三國連太郎主演の1950年代末の日本映画はまさに「関連のない多視点が交互に語られ終局に至るも出会わない」ドラマだったし(具体的に言えば7発の銃弾それぞれに撃たれる人々の話)石ノ森章太郎の古い漫画『そして…だれもいなくなった』でもそれに類することが試みられてたり他にも例はあるんだろうが、イーガンならそこに何か極めて独自の展開を生み出せそうな気がする(読みながらふと思っただけなのでこれ自体大した発想じゃないが)。それともう1つはなぜ舞台がイランかという点だ。と言っても疑問に思ってるわけじゃなく(むしろ雰囲気的に凄くいいと思う)そこに何か隠された意図がありはしないかと妄想してみるのも1つの楽しみ方かもしれないってこと。というのは現実のイランという国を巡っては核開発疑惑がちょうどこの小説の書かれた前後頃から起こって世界の政治軍事問題の最焦点の1つになってたようだからだ。勿論フィクションと現実は別だがしかし現実と非現実の混淆をテーマに書いてる作家イーガンが〈小説の外側〉の現実と非現実に関心がないはずはないと考えると、現実のイランを巡る問題がある方向へ向かおうとしているらしい今、フィクションの中のイランが転換を迎えているように描かれるのを結びつけて想像を膨らませるのも野暮とばかりは言えないだろう(個人的にはその空想はあるヤバ過ぎな陰謀論に繋がるので詳しくは言えないが)。ゼンデギとはペルシア語でlifeの意味だという。耳慣れないそんな奇妙な響きの言葉がカタカナでそのまま邦訳版のタイトルになるのはこの奇妙な物語に如何にも相応しい。英語のlifeは〈生命〉であると同時に〈生活〉とか〈人生〉等でもありペルシア語でも同様なのだろう。がそんなふうに生命・生活・人生etcと複数の概念で分けて捉えてしまうのは日本語にこのlife(あるいはゼンデギ)に相当する語がないからじゃないか。英語民族にとって(あるいはペルシア人にとっても)生命と生活と人生は一体のもの、というより単一の概念であってわれわれのようにいちいち分けて考えたりはしていないんだろう。ひょっとするとそこにもこの小説の秘密の一端が隠されているのかもしれない──いやこれもまたどうでもいい妄想だし大したことでもないが。